【壮絶】医学部4浪ニキとなった私の浪人生活体験記

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トットマン
この記事を書いた人
・地方国立大卒、臨床検査技師免許所持、1996年生まれ27歳男性、現在は大学院にて研究生活
・春は旅行、夏はダイビング、秋はソロキャンプ、冬はスキーを楽しむアウトドアマン
・Xフォロワー1000人(2024年5月現在)
  • 4浪もするとどうなる?
  • 自分また浪人しそうなんだけど…
  • 浪人しまくった人の話が聞きたい!

世の中には、大学受験という壁に阻まれ苦労をする人が少なくない。

特に医学部受験においてはその傾向が顕著で、普通じゃありえないような浪人年数を経て入学した人がごろごろいる(私の同期には11浪がいる)。

浪人しまくるとどうなるのか、興味が有る方

あるいは過去の私と同じように浪人を重ねて今苦しんでいる方

そんな皆様の参考にしていただくべく、私の体験談を記していきたい。

トットマン

私は4浪の末、某国立大の医学部保健学科に入学・卒業した。

ここに至るまでに一体何があったのか。

私の壮絶な暗黒時代を振り返っていく。

目次

高校時代

本来高校時代は浪人に入らないのだろうが、私の浪人時代を語る上では外せない情報だと思ったので、当時のことを書き記す。

高校同期のうち数十名が東大進学

私はいわゆる「落ちこぼれ」

私は都内の某国立大学附属高校の出身だった。

一般的に、国立大学附属の学校は偏差値が高い。

私が所属していた高校も例外ではなく、手前味噌ではあるが、当時の偏差値でいうと75を超える高校であった。

毎年東大に数十名進学する高校でもあったので、周りの意識は高かった。

それにつられて(というと言い訳がましいが)私も上を目指した。

しかし、私は頭の良い方では全く無かった。

当時、学年全体の生徒数は350人ほどであったが、300番台ばかりをとっていた。

トットマン

要するに、思いっきり落ちこぼれだった。

志望は医学部医学科

親族に医師が多かったから

それでも私が目指した場所は、医学部医学科であった。

主な理由としては、親族に医師が多かったからである。

周りからみれば、希薄な理由かもしれない。「お前ごときが」、と思われるかもしれない。

しかし、親族にその職の人がいるというのは、とてつもない影響力なのである。

とりわけ、自己決定力に欠ける私にとって、自分だけ違う道に進む勇気が出なかった。

そんなことで医師の道を志したわけだが、ここから壮絶な四年間が始まるとは、夢にも思わなかった。

現役時代の成績は散々だった

センター試験(当時)は6割にも届かず

ちなみに現役時代の成績は、散々であった。

センター試験(当時)は確か6割にも満たなかった覚えがある。

ここでよく、自分の現役の成績がズタボロだったことに対して、「部活を頑張りすぎた」とか「行事に没頭していた」という理由をつけがち。

トットマン

しかし、私はそういう言い訳はしたくないと思っている。

高3の夏休みは文化祭準備に捧げ、部活は11月まで続けていた

私は高校時代、陸上競技部で中長距離を専門に取り組んでいた。

高校生ランナーにとって一番の憧れといえば、毎年12月に京都・都大路で行われる、全国高校駅伝だろう。

その地区予選が、私の地区では例年11月に行われていた。

私が所属していた部活の中長距離選手にとっては、母校の代表としてメンバー入りし地区予選に出場することが、ある種の誉れであった。

その地区予選に私は3年連続で出場した。つまり、高3の11月まで部活を続けていたのである。

さらに、私の高校では文化祭が9月にあり、3年生はクラス一丸となって演劇を行う伝統があった。

これが我が高校のメインイベントであった。

この演劇をやりたいがために高校に入学してきた生徒も多く、かける情熱は凄まじかった。

なにせ、受験生にとっていちばん大切な高3の夏休みを、ほぼ演劇に費やすのである。

受験勉強という意味ではあまりにも不利であった。

部活や行事は言い訳にしない

では、高3の夏休みを演劇と部活の練習に費やし、さらに11月まで部活を続けていたにもかかわらず、なぜそれを言い訳にしたくないのか

理由は2つある。

1つは、それが理由なら1浪目で合格しているはずだから

結論から言うと、私の1浪目はどの大学にも合格できなかった。

もし現役時代に学校に専念しすぎて間に合わなかったというのなら、勉強に専念したこの一年で合格できたはずであろう。

2つめは、高3の夏休みを演劇と部活の練習に費やし、さらに11月まで部活を続けていたにもかかわらず、現役合格した同期がいたから

実は私には、共に高3の11月まで部活を続けた仲間が3人いた。

そして、その中で浪人したのは、私だけであった

ちなみに1人はお茶の水女子大学に推薦合格、もうひとりは東京大学理科一類に進学した。

私と同じ条件で過ごしていたにも関わらず、である。

これで「部活を頑張りすぎたから落ちたんだ」とか「行事に没頭していたから全然勉強してなかった」という言い訳が通用するだろうか

「でもあいつらは受かったじゃないか」

そう考えると、私にはそんな言い訳、恥ずかしくてとても言えないのである。

トットマン

結局受験なんてものは、頭のいいやつが受かって頭の悪いやつが落ちる。ただそれだけのこと。他の要因なんか関係ない

このとき、そう実感した。

1浪目

大手予備校に在籍

医学部国立コースに在籍

1浪目は某大手予備校に在籍した。

当時の私は自分の能力も顧みず国立の医学部医学科を目指していたので、医学部国立コースに在籍していた。

もうかなり前のことなので詳しくは覚えていないのだが、確かクラスは2つあり、私は下のクラスだった。

そして、その2つのクラスの中には、個別指導コースのようなものがあり、私はそれに在籍していた。

トットマン

今思えば、あれは受験生から金をむしり取るビジネスだったのだろうと思う。

上のクラスであればそれなりの合格率なのだが、下のクラスだと80人ほどいて正直2,3人しか受からない。

本来であれば入塾する前の段階で、しっかり現実を教えてあげるべきなのだろう。

だがそれだと予備校側はお金がとれないから、あらゆる手段で生徒に夢を見させるわけだ。

ここで現実としっかり向き合うべきだった

現実を甘く見過ぎていた

この1浪目の段階で(あるいは高校の早い時期に)、自分の身の丈に合った選択をしていれば、あんなに浪人をこじらせることはなかっただろうと思う

「自分が進みたい道」より、「自分が勝てる道」を選ぶべきだったのかもしれない。

結局、模試等の点数は思うように伸びず、センター試験も6割後半だったように思う。

現役時代と比べれば少しは伸びたが、国公立医大は当然無理で、私立医大に絞ったものの、結果は全敗。

トットマン

正直このときは、「まぁしょうがないか」、程度だった。

現実を甘く見過ぎていた。

2浪目に突入することになった。

2浪目

予備校を変え、心機一転のはずが…

全く勉強に身が入らず

1浪目とは予備校を変え、心機一転しようと考えた。

ところが、全く勉強に身が入らなかった 

予備校に行くと行って高尾山に登りに行ったり、朝から映画館に行って時間を潰したり。

日中両親が自宅にいないのをいい事に、こっそり午前中に家に帰ってずっとゲームしたり。

トットマン

我が人生で最も時間をムダにした、愚かな期間だった。

夏期講習も申し込んだのに、確かほぼ行かなかった。

両親に学費を払ってもらっていたにも関わらず、本当に申し訳ないことをした。

結果は全敗

受けても受けても受からない

センター試験本番は7割程度。

この年は医学部だけでなく他の学部も受けたが、結果は全敗。

トットマン

このときは本当に辛かった。

受けても受けても受からない。

この年も私立医大をかなり受けた。

私立医大の受験費は高く、一校あたり6万もする。それも全滅。

受験会場に向かう自分がものすごく惨めだった。

どうせ受からないのに、6万も払って受けに行く。それも毎日のように。

情けなさで涙が出そうだった

なんであんなことしちゃったんだろう

両親に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

ダメ元で国立の前期・後期試験(両方とも医学部ではない)も受けたのだが、それもだめ。

結局、どこも受からなかった。

勉強していなかったくせに、どこかには受かるだろうと馬鹿なことを考えていた分、失意も大きかった。

絶望の中、支えてくれた人たち

絶望の中ではあったが、このとき励ましてくれたり応援してくれたのが、私の高校時代の陸上競技部同期であった

ご飯に誘ってくれたり、多浪の大学同期を紹介してくれたり。

どこの大学にも受からなかったという状況が変わったわけではなかったが、次への一歩を踏み出す勇気が湧いた。

彼らには今でも感謝している。

トットマン

そして、この1年間が私の大学以降の人生に大きな影響を与えた。

詳細に関しては今後記載したい。

ともあれ、3浪目に突入した。

3浪目

医系予備校へ

勉強に全集中

3浪目は、いわゆる医系予備校と呼ばれるところに通った。

一人一人に自習スペースが与えられ、勉強に集中する環境が整えられていた。

結果としてこの予備校に2年間通ったのだが、浪人時代の中では一番勉強した予備校であった。

両親に大変な犠牲を強いていたこともあり、かなり集中して勉強にのぞんだ。

トットマン

この年は志望校を私立医大にしぼり、対策を徹底した。

私立医大に一次合格

ところが…

その甲斐あり、私立医大1校から一次合格を得ることができた

しかし、そこまでだった。

思えばその私立医大は、一次合格者を多く出す学校として有名だった。

トットマン

話が長くなるので、次の※まで飛ばしてもらって構わない。

医学部医学科の一般受験は、基本的に一次試験と二次試験に分かれる。

一次試験は筆記試験、二次試験は面接である。

国立医大の場合は一次試験と二次試験が同時に行われるが、私立医大の場合はそうは行かない。

受験者数がめちゃくちゃ多いからである。

センターで足切りを受ける国立医大と違い、私立医大は極端な話、お金さえ払えば誰でも受けられる。

現に、受験会場に高齢の受験者がいることも珍しくなかった。

そんなカオスな面々を、一人一人面接するわけには行かない。

なので私立医大の一般受験では、一次試験の段階で受験者がふるいにかけられるのである。

人数でいうと、一次試験の受験者が3000人ほど。

ここから絞られ、二次試験で200人〜300人ほどになる。

定員は120名ほどなので、二次試験を受けたものの中から正規合格者をある程度出し、残りは補欠となる。

補欠となった者は、正規合格者が入学辞退をした際に、補欠合格として入学することができる。

そのため、正規合格者が入学辞退をした際に備えて、正規合格者を定員より多めに出す大学も多い。

そして、失礼な言い方になるが、人気の低い(つまり私立医大の中ではあまり偏差値の高くない)大学ほど、一次試験・二次試験ともに合格者をかなり多めに出す傾向がある。

他の偏差値の高い大学の受験日程と重なった際に、そちらを優先して、一次試験に受かったのにそもそも二次試験の受験会場に来てくれない学生が出るからだ。

そして、私が補欠となったその大学も、いわゆる人気の低い大学であった。

しかもその大学は、一次試験の時点で700名ほど合格者を出す大学で、異常に多く合格者を出すことで有名だった。 

その理由は、あくまで噂ではあるが、大学OBの子息を二次試験で優先的に選ぶため、と言われている。

大学OBは、その大学の教育方針等に理解を示してくれることが多い。

だから大学側としては、できれば親が大学OBである子息がなるべく多く入学してくれるほうがありがたい。

そのために、一次試験の段階でかなり多めに一次合格者を出す。

大学OBの子息がその中に含まれる確率が高くなるからだ。

と、言われている。

真偽は定かではない。

とにもかくにも、そんなに多く一次合格者を出す大学で補欠に回った時点で、自分に順番が回ってくる望みは薄かった

補欠合格を待ち続けた

今でも思い出したくない時間

それでも一次合格を得たのは初めての経験で、しかもそこはこの年一発目に受けた大学であった。

今年は行けるのではないか、と迂闊にも思ってしまった。

しかし、一次合格を勝ち取ったのは結局その1校だけ。

一次合格1校しか得られない実力だと正直私立医大合格は厳しいのだが、「もしかしたら…」と思ってしまう自分がいた。

しかし補欠合格の連絡は、とうとう来なかった

その分、ショックも大きかった。

トットマン

補欠合格の連絡を待ち続けたあの3月〜4月までの期間は、今でもあまり思い出したくない。

大変な迷惑をかけた両親や家族に報いたい一心であったが、叶わなかった。

努力が足りなかった。

死んだら負け

暗い話になってしまうが、このときはもう、とにかくこの世から消えてしまいたかった

誰の役にも立ってない、何も進歩していない自分の生きる価値が全く分からなかった。

自殺する人の気持ちが、なんとなくわかったような気がした。

トットマン

ただ、死んだら負けだとも思っていた。

今思えば、この一年で、自分なりの死生観が確立されたように思う

無駄な1年ではなかったと思うし、無駄にしてはいけない1年だと今でも思っている

とにかくなんとか立ち上がり、4浪目に突入した。

4浪目

同じ予備校で必死に勉強

とにかく、追い込まれていた

3浪目と同じ予備校で頑張った。

この年もかなり勉強した。

さすがにもう浪人できないほど追い込まれていたので、必死だった。

私大医学部の対策もしつつ、センター試験に向けた勉強も進めた。

もうどこでもいいので受かった大学にお世話になる覚悟だった。

結果は

そして迎えた1月。

結果はなんと、私大医学部全落ちだった

トットマン

つまり、去年よりひどかった。

しかし、信じられないようだが、不思議と絶望感がなかった

なんというか、諦めの境地にいた。

こんなに勉強して受からないなら、自分はこの道によほど向いていないんだろう

そういうレベルに達していたように思う。

この経験が後に、大学4年次の国家試験に生きることになる。

医学部医学科以外も受け、そして…

そして、国立前期・後期試験は、某地方大学医学部保健学科のある専攻を受験した。

前期は筆記試験。

ここで私は不合格となった。

トットマン

さすがにこのときは焦った。

もう残るは後期試験しかない。

しかもその後期試験は、センター+面接のみ。

ほぼセンターで決まると言っても過言ではなかった。

ちなみに、私のセンターの点数は7割2分ほど。センター判定はD。

正直無理だと思った。

それでも諦めずに面接試験を受けた。

そして、合格発表の日。

私の受験番号があった。 

信じられなかった。本当に嬉しかった。

もちろん私が一番望んでいた場所ではなかったが、やっと胸を張って人生を歩ける気がした。

未練なんか、全く無かった。

急いで仕事中だった医師である父に電話をした。

興奮気味に祝福してくれた。

現地の合格発表を見に行っていた母にも電話をした。

母はすでに結果を知っていたが、同じように喜んでくれた。

大切にしていた、祖父の存在 

そして、実は私が後期試験を受ける直前に、医師であった祖父が亡くなっていた。 

私が不出来なばかりに最期に立ち会えず、お葬式にも行けなかった。

申し訳ない気持ちがあった。

だから受験会場には祖父の写真を持っていったし、帰った後も自宅に飾っていた。

自分の受験番号を見つけた時は、思わず写真に向かって口に出していた。

おじいちゃん、受かったよ。ありがとう」。

この経験以降、ゲン担ぎのようなかたちで、私は祖父の遺品を身近に置くようになった

キーケースと財布は、未だに祖父のものを使用している。

研究室に置いてあり、毎日のように使っているコーヒーメーカーも、祖父が使用していたものだ。

人任せではあるのだが、自分が大ピンチのときに、もしかして祖父が助けてくれるんじゃないかと。

トットマン

祖父のものが身近にあると、少しだけ勇気が出るのだ。

とにかく、こうして私は、長い浪人生活に終止符を打つことができたのである。

まとめ

私の壮絶な浪人時代を振り返ってきた。

長い浪人生活を経て、よく言われる「諦めずに努力すれば夢は叶う」というありきたりな謳い文句は、相当陳腐なものだと実感した

トットマン

「『これでダメなら諦める』。そういう努力をしろ」

この表現のほうが個人的にはしっくりくる。

実際、このマインドが私の大学4年次の臨床検査技師国家試験に、大いに役立った

あのときは、「もうこれでダメなら潔く臨床検査技師を諦めよう。自分よほど向いてないんだわ」。

そう思えるくらい勉強した。

当時はすでに大学院進学が決まっていたのでこれだけ思い切れたというのも、正直ある。

だが、精一杯努力したからこそ、本番もそこまで緊張はしなかったし、精神も安定していた。

結果にも納得できた。

もし受験勉強に苦しんでる人がいたとしたら、とにかく「これでダメなら仕方がない」と思えるくらい、努力してみることをおすすめする

そうすれば、仮に望んだ結果が伴わなかったとしても、自分の選択ややってきたことに、後悔せずに人生を送れるだろう。

納得もできるし、諦めもつくだろう。

あと、話はかわるが、受験に失敗して「人生終わった」と考える人がよくいる。

トットマン

私も何十校も受験して全部落ちてきたから、ものすごくわかる。

だが、何度も失敗してきた私だからこそ言いたい。

「人生終わったかどうかなんて、あなたが決めることじゃない」。

そういうのは、神様が決めることだ。

あなたが決めることじゃない。

だから、人生終わったかどうかなんて、考えなくていい。

今できることを、精一杯やってみよう。

やることがなくなったら、せめてご両親やご家族に、「おはよう」「ありがとう」って言ってみよう。

言える元気と優しさがあるあなたなら、もう大丈夫だ。

全然、「終わって」なんかない。

もうじき、あなたの時代が必ず来る。

頑張れとは言わない。あなたはもう、十分頑張っている

ただ、あんま無理すんな。心配すんな。

きっとうまくいくさ。

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